生きることは何故辛いのか?アインシュタインと神様のお話

生きることは何故辛いのか?アインシュタインと神様のお話

生きること何故辛いのか?

生きることは何故辛いのでしょうか?

基本的に、生きていれば分かることですが、
生きていると辛いことや厳しいこと、
問題やトラブルというものに必ず遭遇することになります。

更に、生きているということは、
基本的には楽しいことや嬉しいことよりも、
悲しいことや寂しいことの方がずっと多くあるものかと存じ上げます。

生きるということは、
そもそも厳しいということですね、
そういう要素がございます。

生きることが何故辛いのか?

それは、全ての生き物に共通することと致しまして、
生きるということは、
他の権利を奪うことでしか生きることができない、
という真理にあるからではないかと存じ上げます。

何かを食すということは、
他の生き物の生きる権利を奪い、
自らを生かすということになります。

これを継続しない限り、
生を紡ぐということはできないものとなります。

生きるということは、沢山の権利を奪うこと?

鑑定をしておりますと、
鬱の方や精神疾患のある方、
生きたくないという方、
そういう方ともお話することがございます。

場合によっては、
不登校の方もございます。

生きるということが、
他の権利を奪うことで成り立っているとするのであれば、
生きるということは他に対しての攻撃性が必要となるものではございます。

世の中にはそういうことが苦手、
ということは多くあるものになります。

そうなりますと、
弱い方である程、
その攻撃性を出すことは躊躇われるものとなるでしょう。

弱いという言葉は、
言葉を変えれば、
優しいや大人しいとか、
場合によっては思い遣りがあるとか、
そういう言葉で表現されることもあるのかもしれませんね。

生きることは、
実は罪深きことなのかもしれませんね。

沢山の権利を奪い続けることによってしか、
自らを生かすことができません。

そう考えますと、
生きているだけで辛いのは当然と言えば当然
と言えるのかもしれませんね。

相手も生きる為に必死な訳でして、
しかし、それを制して自らを生かす、
こんなことを繰り返していれば、
心も気持ちも精神も気が滅入ってくる方が出てきたとしても、
不思議ではありません。

逆に言えば、心や気持ち、精神状態に負荷を感じる方の方が、
まともな感性
ということもできるのかもしれませんね。

仕事が辛いと感じる理由

生きることが辛いことと、
仕事が辛いことには相関関係があります。

生きることと仕事の本質的な要素は変わりません。

仕事というものは、
基本的には他の権利を奪うことによって成り立つものではあります。

いらないと言っている方に対してセールスを掛けて、
モノやサービスを購入させます。

今まである既存の取引先に割って入って行き、
事業の拡大を図ります。

その為のブランド力でしたり、
セールス戦略というものになります。

ビジネスというのは拡がることを求めて行うものとなりますが、
拡げる為には他の領域に入っていくしかない、
というものでもあります。

貴方の身の回りを見渡した際に、
いらないモノやサービスが沢山ありますように、
そういうものを購入させるのがビジネスということになります。

そして、勿論、購入の影には失っているものがあるということになります。

これを継続すれば、
基本的には辛いはずです。

確かに、対価としてのお金を得ることにはなりますが、
仕事というのは継続すればする程、
心や気持ちが萎えてくる、
そういう方が出てきても不思議ではないものではございます。

それは、先程の生きることを継続している内に、
生きることが辛くなってきて心や気持ちが滅入ってしまう、
というものと同じものとなります。

生きることが辛いというのは、
ある種のこの世の掟の様なところがございます。

人間界だけに限らず、
自然界でも生きることは辛いものとなります。

自然界の生き物でしたら、
捕食できなければ飢えによって亡くなってしまいますし、
植物の様な土と水と太陽から自らを生かす術を知るものであっても、
根から毒を出して他の植物を枯らしてしまう種があったり、
下層の植物には陽の光が届かないよう独占してしまったり、
そういう要素はあったりも致します。

結局のところ、
生きることというのは攻撃性によって成り立っている
という本質からは逃れることができないようですね。

そう考えた時に、
一つの疑念が思い浮かびます。

アインシュタインと神様のお話

何故、この世の中では生きているだけで辛いのでしょうか?

ただ生きているだけで辛いという世の中であるのでしたら、
そんな世の中不完全と言えるのではないでしょうか?

そんな不完全な世の中を神様は創ったのでしょうか?

人の思考力を持ってすら、
この不完全さに気付くことができます。

恐らく、この世の中は神様によって創造されたものではないのでしょう。

神様なんていないのかもしれませんね。

神様の存在を科学的に完全に否定してしまったのは、
アルベルト・アインシュタインによる相対性理論になるかと存じ上げます。

全てのものは相対的に決まっており、
絶対的なものはない
ということを証明した理論になりますが、
人が想像する様な”神様”という絶対的な存在は、
恐らく無いのでしょうね。

アインシュタインはその理論の中で、
“光”というものを一旦の基準、
光を通して物事を視ようと致しました。

そういった意味ですと、
この理論における絶対的なものは”光”
と言えるのかもしれませんね。

しかし、その基準においた光をもが変わってしまう、
結局、全てのものは相対的にしか決まっていない
そういうことが結論付けられます。

しかし、では、アインシュタインは、
何故、光を基準にして物事を視ようと考えたのでしょうか?

そういう疑問は残ります。

それは、陰陽五行説の原理原則を紐解けば、
簡単に分かります。

しかし、それは、
また別の機会のお話ですね(^^)

陰陽五行説は自然哲学になりますので、
基本的には自然科学の立場を支持致します。

ですので、人が想像する様な”神様”というものを想定することはありません

全てのものが相対的にしか決まっていないのであれば、
全てのものは不確定であり、
全てのものは揺らいでいる、
ということが言えるかと存じ上げます。

絶対的なものは何一つとしてこの世にないのですからね。

地獄も天国もあの世にあるものではなく、
この世にあるものかと存じ上げます。

では、何故、この様な不完全な世界になってしまっているのでしょうか?

その理由に対して、
陰陽五行説は一つの答えを与えることが可能になります。

色即是空(しきそくぜくう)であり、
空即是色(くうそくぜしき)である、

これによってこの世が不安定であることが確約されました。

色即是空や空即是色は仏教用語になりますが、
陰陽五行説が自然哲学である限りにおいては、
自然科学との整合性は常に保たれるものではございます。

自然科学というのは自然哲学の一分野を表現しているに過ぎませんが、
それでも矛盾なく、整合性は保たれるということになります。

アルベルト・アインシュタインは世の中に対して、
一つのモノの見方を提唱したのでしょうが、
そのモノの見方は陰陽五行説の本質と合致している、、、

しかし、本当はそうではなく、
自然科学の方が巡り巡ってまた再び元に位置に戻って来た、
本来あるべき場所へ還って来た、
そんなことが言えるのかもしれませんね。

物事の本質というのは、
先へ先へと進むべきものではなく、
元へ元へ戻ろうとしていく中で、
本当の心というものを取り戻していくのかもしれません。

ただただ、人がその本質を見失っているだけ
そんなところに課題があるのかもしれません。

生きることが厳しいのは、
その厳しさの中に本当の答えがあるからになります。

それでは、また別の機会にて、
詳しくお話させて頂きますね(^^)

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